ある時期の私は、正直かなり消耗していました。職場に、顔を合わせるだけで気力を持っていかれる人がいて。どうにかうまくやろうと努力して、でもうまくいかなくて、また努力して——その繰り返しで、気づいたら休日もその人のことを考えてる自分がいたんです。ご飯を食べていても、映画を観ていても、頭のどこかにその人がいる。それってもう、ちょっと普通じゃないですよね。

「嫌いでいちゃいけない」「もっと努力すれば仲良くなれるはず」「自分の器が小さいんだ」って、ずっと自分を責め続けていました。そのくせ、ぜんぜん楽にならない。むしろどんどんしんどくなる一方で。あの頃の私に言ってあげたい。距離を置いていいよって。それだけでいいよって。

今日は、嫌いな人への対処法として「距離を置く」を選んだ私の話をしますね。

嫌いな人を「好きになろう」と必死だった頃

30代で転職した先の職場に、どうしても苦手な人がいました(苦手、どころじゃなかったけど)。いわゆる「悪い人」じゃないんですよ、きっと。でも、その人と話すたびになぜかモヤモヤが残る。会議で自分の意見を軽く流されるとか、廊下でばったり会ったときの愛想笑いが帰宅してからもなぜかずっと頭に残るとか、そういう細かい積み重ねがじわじわ効いてくる感じ。「嫌い」というより「合わない」という感覚に近かったかもしれません。でも、日々の消耗感は「嫌い」と同レベルでした。

「こっちの感受性が強すぎるのかな」「相手はそんなつもりじゃないはず」「私がもっと大らかな人間になればいいだけじゃ?」って、自分を説得し続けていたんです。当時の私の頭の中は、ほぼその人への考察で埋まっていました。今思えば、なんてもったいない時間の使い方でしょう。

相手のいいところを探してみたり、朝に「今日はポジティブに接する!」って誓ってみたり。それで3時間後には「やっぱりダメだ…」って玉砕するを繰り返していました。こんな不毛な戦いを、2年近くも続けていたんです。向き合い続ければいつか必ずわかり合えると信じて。でも、わかり合えることは最後までなかったです。

「苦手な人とも仲良くしなきゃ」——その大前提、本当に正しいの?

嫌いな人への対処法。距離を置くって決めたら、ラクになった話。

「人間関係は努力でなんとかなる」「苦手な人こそ向き合うべき」というのは、世間でよく言われることですよね。学校でも職場でも、それが「正しい態度」「大人のあるべき姿」みたいに言われてきた気がします。私もそう信じていたし、そう信じることで自分を正当化してもいました。

でもね…。

あるとき、「そもそも全員と仲良くする必要って、あるのかな?」とふっと思ったんです。仲良くしなくていいという話じゃない。でも「好きになろうと努力する義務」は、どこにも存在しないんじゃないかって。人が一生をかけて築ける深い関係なんて、せいぜい数人じゃないですか。それ以外の全員と同じ熱量で関わろうとするのは——それ自体が、ちょっと無茶な話だったんじゃないかと、今の私は思います。

嫌いな人がいることは、悪いことじゃない。それはごく普通のことで、問題はその「嫌い」とどう向き合うか、なんですよね。そして「向き合う」の答えが、必ずしも「仲良くなる努力をし続けること」である必要はないんです。

距離を置くって「逃げ」じゃなくて「選択」だよ

距離を置こうと決めたとき、最初は罪悪感がありました。「向き合わずに逃げてる」「大人として情けない」という声が、頭の中でずっとする。職場の人間関係って、逃げ場がないぶん、こういう罪悪感を感じやすいですよね。でも今なら言えます。距離を置くのは、逃げじゃないって。

距離を置くことと、問題から目を背けることは、まったく別の話なんです。相手のことをちゃんと認識した上で、「この距離感がお互いにとって適切だ」と判断するのは、立派な大人の選択です。むしろ、無理に近づき続けて自分をすり減らすほうが、長い目で見て誰の得にもならない。相手にとっても、正直迷惑な話だと思います(歓迎されていない場所に近づき続けるのは、どう考えても…ですよね)。

私の場合は、まず物理的に顔を合わせる回数を減らしました。必要以上に同じ空間にいない。会議では最低限の発言だけ。ランチは別の人と行くか、ひとりで行く。「失礼かな」って最初は思ったけど、じつはそんなこと、誰も気にしていなかったです。自意識過剰でしたね、私が(笑)。

それと同時にやったのが「心の中でも距離を置く」こと。相手が何か言うたびに「どういう意図なんだろう」「また傷ついた」って反応してしまう癖が、すっかり染み付いていたから。そこで意識したのは、「この人の言動に、必要以上に反応しない」という決め事でした。反応しないことは、感情を殺すことじゃない。ただ、エネルギーを使わないようにするだけ。それだけで、だいぶ違いました。

距離を置いたら、こんな変化があった

嫌いな人への対処法。距離を置くって決めたら、ラクになった話。

距離を置くと決めてから、変わったことがいくつかあります。まず単純に「日々のしんどさ」が減りました。当たり前といえば当たり前なんですけど、接触の頻度が減ると、消耗する機会も減るんですよね。「明日あの人に会うのか…」という日曜の夜の憂鬱が、かなり軽くなったことを今でもよく覚えています。

それからもうひとつ、面白いことが起きました。その人のことを考える時間が減ったぶん、自分が本当に大切にしたいことへ使えるエネルギーが戻ってきたんです。友達と会う予定を入れる気力が出てきたり、ずっと放置していた趣味をまた始めたり。あ、私ってこういうことが好きだったんだ、って思い出した感じがして。嬉しかったですよ、本当に。

嫌いな人に引っ張られていた時間って、思っているより多いんです。頭の片隅にずっと「あの人問題」が居座っていて、なんとなくすべてのことに影がさしていた。それが消えると——本当に、世界の見え方がちょっと変わります。大げさじゃなく、そう感じました。

完全には避けられない場合、私がやっていたこと

「距離を置くって言っても、職場だから毎日顔を合わせるんだけど」という状況、ありますよね。私もそうでしたから、よくわかります。物理的な距離をゼロにするのが無理でも、心理的な距離は置けます。

私がやっていたのは、「この人との会話は、業務の情報交換だけ」と決めること。感情を乗せない。相手が何か言ってきても、「そうですね」「わかりました」「確認します」の3パターンでほぼ乗り切れます(実際これで2年近く乗り切りました)。簡単そうに見えて、最初はけっこうエネルギーがいります。でも慣れてくると、相手の言葉がスルッと流れていくようになりました。

あとは、相手の機嫌や態度を「自分への評価」として受け取らないようにすること。これが難しいんですよね、正直に言うと。でも、相手の機嫌は相手のもの。それに私が責任を持つ必要はないんです。そう決めてから、ぐっとラクになりました。「あ、今日この人機嫌悪いな」と思っても、「そっか」で終わりにできるようになった。

それと、「この人と合わないのは私のせいでも相手のせいでもなく、ただの相性の問題」と認識することも大事でした。善悪の話じゃないんです。相性って、あるんですよ、本当に。私とあの人は、ただ合わなかっただけ。それを受け入れると、怒りや悲しみよりも、「まあ仕方ないか」という諦め——いい意味での諦めが、じわっと生まれてきます。

嫌いな人は、自分の「大切なもの」を教えてくれる

嫌いな人への対処法。距離を置くって決めたら、ラクになった話。

これ、距離を置いてだいぶ落ち着いてから気づいたことなんですが——嫌いな人って、じつは自分にとって大切なものを教えてくれているんですよね。

「なぜこの人が嫌いなのか」を、怒りが引いてから冷静に掘り下げてみると、そこに自分の価値観が見えてきます。私の場合は、相手の「自分の都合で話を打ち切る癖」がどうしても苦手でした。それって、「対話を大事にしたい」「ちゃんと話を聞いてほしい」という気持ちを、私が強く持っているということなんですよね。なんだ、私ってそういうことを大事にしてたんだ、って。距離を置いてから、初めてそれに気づけました。

誰かを嫌いになる感情には、必ず理由があります。そしてその理由の多くは、「自分が大切にしていることを、その人が踏みにじっている(と感じる)」から。嫌いな感情は、自分の価値観の地図を見せてくれる、ある種の鏡でもあるんです。

嫌いな感情を「ダメな感情だ」として無理に封じ込める必要はないと思います。嫌いでいい。ただ、その感情に引きずられ続けるより、距離を置いて自分のペースを取り戻すほうが、よっぽど建設的じゃないですか。余裕が生まれたら、「なぜ嫌いなのか」を少しだけ考えてみると——意外な自分の側面に気づけたりもします。

嫌いな人を「先生」と呼べるほど、当時の私には余裕はなかったです(そんなきれいごと、言える状態じゃなかった)。でも、距離を置いてからようやく、その「気づき」を受け取れるようになった気がします。

嫌いな人から距離を置くことは、関係を諦めることでも、逃げることでもないと私は思っています。それは、自分を守るための、立派な判断です。全員と仲良くしようとしなくていい。あなたのエネルギーは、あなたを大切にしてくれる人や、あなたが好きなことのために使っていい。距離を置くって決めたら楽になった——それが、私の正直な答えです。