「自分を好きになる」って、こういうことじゃないかと私は思う
自分が嫌いだった。ものすごく。顔も、すぐ泣くところも、決断の遅さも、なにかあるたびに「どうせ私なんか」と呟いてしまうくせも、ぜんぶ嫌いだった。
でも「自分を好きになろう」という言葉は、ずっと気になっていました。自己啓発本を読んでも、SNSで素敵な言葉を目にしても、毎回「それができたら苦労しないんだよ……」と画面を閉じていた。あのころの私に向けて、今日はこの話をしたいと思います。
「自分を好きになろう!」って、何回聞いたかわからない
「自分を好きになろう!」という言葉は、もはやどこにでもあります。本屋さんに行けば「自己肯定感を上げる方法」みたいな本が平積みになっているし、SNSを開けば「あなたはそのままで十分だよ」という言葉があふれています。
私もずいぶんそういうコンテンツを消費してきました。本を読んで、ワークをやって、ポジティブな言葉を手帳に書いて。全部試した。全部。
でも正直に言うと、何年経っても「自分が好き!」という感覚にたどりつけなかったのです。むしろ自己啓発コンテンツを見るたびに「私ってまだ自分を好きになれてないんだ…」と、逆に落ち込むことすらありました。これって、コンテンツの副作用じゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。
「自分を好きになれ」と言われるたびに、なんだか責められてるような気持ちになる、あの感覚。あなたにも心当たり、ありませんか?たぶんそれは、あなたがだめなんじゃなくて、やり方がちょっとずれていたんじゃないかと、今は思っています。
「いいところを探す」って、実はズレてたんじゃないか

よく言われるのが「自分のいいところを紙に書き出してみよう」という方法です。これ自体は悪くない。悪くないんだけど、私の場合はうまくいきませんでした。
書こうとすると、手が止まってしまうのです。「やさしい…?いや、自分勝手なときもあるしな」「頑張り屋…?最近サボりがちだしな」みたいな感じで、ひとつ書くたびにセルフ論破してしまって、結局白紙のままノートを閉じるという。(あの時間、本当にしんどかった。)
でもね…。「いいところを探す」こと自体が、なにかずれていたんじゃないかと、今になって思うのです。「いいところがあれば好きになれる」という大前提に、そもそも無理があったのかもしれない、と。
たとえば、友達のことを好きなのって、その子が「いい部分を持っているから」だけですか?だらしないところも、たまにわがままなところも知ってて、それでも好きじゃないですか。なのになぜ、自分にだけ「好きになれる理由」を証明し続けなきゃいけないのでしょうか。これに気づいたとき、ちょっとだけ気が楽になりましたよ。
自分を嫌いでいることの、意外な「得」
少し意地悪な話をします。
自分を嫌いでいることって、実は無意識に「メリット」があったりするのです。私の場合はこうでした。「どうせ私は…」と思っていると、チャレンジして失敗するリスクを取らなくていい。自分に期待しなければ、裏切られることもない。「こんな私がそんなことしたって」という言い訳が常にそこにあるから、一種の防衛線になっていました。
それに気づいたのは、友人にズバリ言われたからです。「yukoって、自分のこと悪く言いながら、失敗することへの言い訳を用意してない?」
…刺さりました。ものすごく。「そんなことないよ!」って言い返したかったけど、ちょっと待って考えたら、図星だった。自分を嫌いでいることで、「傷つく前に自分で傷つく」ということをずっとやってきたのだなと思いました。
「自分が嫌い」でいることには、他にもメリットがありました。人から批判されても「あ、やっぱり私はダメなんだ」と確認作業になって、傷の深さがある意味一定になる。「そんなことないよ!」と言われても「どうせお世辞でしょ」と跳ね返せる。要するに、感情が揺さぶられる幅を自分でコントロールしていたのです。でもそれって、すごく生きにくいですよね。いい言葉も入ってこない、悪い言葉だけが「証拠」として積み重なっていく。ずっとそれをやってきたんだなあ、と気づいたとき、なんか自分のことをちょっと笑ってしまいました。そして、もうそのやり方は手放してもいいかな、とも思いました。
「許す」って、具体的にどういうこと?

「自分を好きになる=自分を許す」という言葉も、よく聞きます。でもこれもまた「具体的にどういうこと?」ってなりませんか。私も長いこと、ふわっとした言葉だと思っていました。
私の場合、「許す」が腑に落ちたのは、ある晩のことです。仕事でちょっとしたミスをして、家に帰ってきてからも延々と自分を責めていました。「なんであんなことしたんだろう」「もっとちゃんとやればよかった」みたいなことをぐるぐる考えながら、お風呂で泣いていたんです。(かなり重症ですね、笑。)
そのとき、ふと思ったのです。「もし友達がおんなじことをしていたら、私は何て言うだろう」って。絶対に「しょうがないよ」「よく頑張ったよ」「次、気をつければいいじゃん」って言うよな、と。でも自分に対しては、同じことが言えなかった。なんで自分にだけこんなに厳しいんだろう、と思ったら、なんか急に泣けてきてしまいました。
「許す」って、友達に接するように、自分に接すること。それだけのことだったのです。言葉にすると簡単だけど、これが本当に難しい。でも「友達だったら何て言う?」と自分に問いかけるだけで、だいぶ変わりましたよ。具体的に変わったのは、「ひとりごと」の内容でした。以前は「なんで私ってこうなんだろ…」が口癖だったのが、「あー、今日もよく頑張ったな」とか「失敗したけど、まあいいか」という言葉が少しずつ出てくるようになりました。大げさな変化じゃないんですよ。でも、自分に言い聞かせる言葉が変わると、一日の体感がじわじわ変わってくるのです。
「完璧じゃなくていい」は、思ったより難しいことだった
「完璧じゃなくていいよ」という言葉も、本当によく聞きます。でも私はしばらく、この言葉の意味を間違えていました。「完璧じゃなくていい」を「だから頑張らなくていい」と読み替えてしまっていたのです。
でもそれは違う。少なくとも私には違いました。「完璧じゃなくていい」が意味しているのは「完璧じゃない自分を出発点にしていい」ということだったのです。ゴールを下げることじゃなくて、スタートラインを変えること。
私は昔から「できてから見せる」タイプでした。なにかを人に話すのも「うまくいったら話す」スタイルで、失敗中の自分、模索中の自分、泥臭い自分を見せることが、すごく怖かったのです。完璧に近い状態の自分しか出せない、みたいな感じ。
でもあるときから、そのまま話せるようになりました。「実はいま、こういうことで悩んでる」って。そうしたら意外と「私も!」って返ってきて、むしろ距離が縮まることが多かったのです。「完璧じゃない自分を見せたら嫌われる」という大前提が、実はまるで違っていたということを、そのとき知りました。完璧じゃない自分を見せることで「話してくれてありがとう」と言われることも増えて、それがすごく嬉しかったです。
自分を好きになる、ってこういうことじゃないかな

結局のところ、私が今感じている「自分を好き」というのは、こういうことです。
「自分に飽きない」ということ。
嫌いなところも、情けないところも、まだまだだと思うところも含めて「この人(私)は面白いな」と思える感覚。好きな映画を好きでいるのと、少し似ているかもしれません。完璧な映画じゃなくても、傷だらけのストーリーでも、好きなものは好きじゃないですか。そういう感じです。
「自分のすべてが好き!」は、正直まだ言えません。でも「自分のことが嫌いじゃない」「この自分でいくか」と思えるようになった。それで十分だと、今は思っています。
自分を好きになろうとして、いいところを探して、前向きな言葉を貼って、それでも変わらなくて疲れてしまったあなたへ。やり方が間違ってたわけじゃない。ちょっと角度がずれてただけだよ、と伝えたいのです。
自分を好きになるって、特別なことじゃない。自分に「そのままでいいよ」と言える日が来ること。それだけ。
