鏡の前で立ち止まって、「あ、いいじゃん」って思った瞬間があったんですよね。特別なことは何もない、ただの朝で、メイクもしてないし、髪もまだ乾かしてない状態。それなのに、なんとなく「あ、まあいいか」って思えた。

あの感覚が何だったのか、しばらくわからなかったんですが、後から考えると、たぶんあれが「自分を好きでいられる状態」だったんだと思います。自分を好きになった、という大きな事件があったわけじゃない。気づいたら、そういう地点に来ていた、という感じなんです。

「自分を好きになりましょう」という言葉は、いろんなところで見かけますよね。本にも書いてある。SNSにも流れてくる。でも、具体的にどうすればいいのかって、誰も教えてくれない。「自分を愛して」と言われても方法がわからない、という人は多いんじゃないでしょうか。私もずっとそうでした。この記事では、私が失敗しながらたどり着いた「自分を好きになる」の中身を、正直に話してみようと思います。

「自分を好きになりなさい」は、呪いになることもある

「自分を好きになりなさい」「自己肯定感を高めよう」「まず自分を愛することから始めよう」。20代の頃、自己啓発本を読み漁っていた時期があって、こういった言葉を毎日のように目にしていました。

読むたびに、焦るんです。「私、自分のこと好きかな?」「好きじゃなかったらどうしよう」「好きになれていないから、うまくいかないのかな」ってなる。「自分を好きじゃない私」という事実が、どんどん重くなっていきました。

「自分を好きになろう」と意識するたびに「まだ足りない」「ちゃんと好きになれていない」という焦りが生まれて、結果的に自分に対してどんどん厳しくなっていった。これ、完全に逆効果でしたよね。

「自分を好きになりなさい」というメッセージは、ある人にとっては救いになります。でもある人にとっては「今の自分ではダメだ」という証拠として機能してしまう。受け取り方次第で、薬にも毒にもなるんですよ。私の場合は、しばらくの間、完全に毒として機能していました。自分のことを好きじゃないと焦り、焦ることでさらに自分を責める、という無限ループに入っていたんです。

だから最初に言っておきたいのは、「今すぐ自分を好きにならなきゃ」と思わなくていい、ということです。そこから始まると、しんどいだけです。もう少し違う入り口から入っていきましょう。

「好きになれない自分がダメ」という大前提が一番の問題で、そこを外すだけで、だいぶ楽になりますから。

「いいとこ探し」と「アファメーション」で大失敗した話

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

「自分を好きになる」系のメソッドで有名なのが「いいところ探し」ですよね。自分のいいところを毎日ひとつ書き出す、というやつ。私もやりました。ノートを用意して、張り切って始めたんです。

最初の数日は書けます。「今日は仕事で頑張った」「友達に優しくできた」「ランチを手作りした」とか。でもそのうち、段々と書くことに詰まってくる。「今日、いいところあったっけ……」「特に何もなかったな……」「ていうか、これって本当にいいところ?ただの普通のことじゃない?」ってなってくるんですよね。

しばらくすると「いいところが見つからない日が続いている私」という新たな事実が積み上がっていく。「今日もいいところが見つからなかった」「また書けなかった」って、新しい自己嫌悪が生まれてしまいました。このやり方、私には合わなかったみたいです。

「ポジティブアファメーション」というのも試しました。「私は美しい」「私は愛されている」「私は自分を愛している」みたいな言葉を毎朝鏡の前で言うやつです。最初は「効きそう!」って思ってやるんですが、言うたびに「でも本当にそう思ってないし……」という違和感が拭えなくて。嘘をついてる感じがして、むしろ気分が悪くなったりしていました。

テクニックを外から貼り付けるやり方では、私には効かなかった、ということです。「自分を好きになる」ための「正しいやり方」を探して、失敗して、また探して。そのサイクルを何年も繰り返していたんですよね。

今になって思うのは、方法論が問題なんじゃなかったということ。自分のことをちゃんと「知っていなかった」から、どんなメソッドも上滑りしていたんだと思います。自分という土台がぐらぐらのままで、建物だけきれいに見せようとしても、うまくいくはずがなかったんですよね。

全部手放したら、転機が来た

あるとき、「もう無理だ」と思って、全部やめました。自己啓発本を読むのも、アファメーションも、いいところ探しも。自分を好きになろうとする努力を、全部やめたんです。

その代わりに、なんとなく始めたのが「自分を観察すること」でした。好きにならなくていい。嫌いでもいい。ただ「今日の私、どんな感じだったかな?」とぼんやり振り返る習慣だけ、続けてみることにしたんです。

「今日、あの人の言葉にちょっとイラッとした」「なんか疲れた、でも理由がわからない」「今日のランチ、すごくおいしかった」みたいな、小さなことをただ気づくだけ。評価しない。「イラッとしてダメだな」とか「疲れてるのは頑張れていないからだ」とか、そういうジャッジをしないようにしました。ただ「そうなんだ、そういう気分だったんだ」って確認するだけ。

これを続けていたら、面白いことが起きました。自分のことが、だんだん「他人みたいに見えてきた」んです。悪い意味じゃなくて、「あ、この子、こういうときに疲れるんだな」「こういうことが好きなんだな」「この環境が苦手なんだな」って、少し距離感を持って観察できるようになってきた。そうなると、不思議と「この子、まあいいじゃん」って思えてくるんですよ。

好きになろうとするより、知ろうとする方が先だったのかもしれない。そう気づいたのが、転機でした。「好き嫌い」を決める前に、まず「この人間を知ること」が必要だったんですよね。

観察は、ジャッジしないことが大事です。「疲れた私はダメだ」じゃなくて「疲れた私がいた」という事実をただ見る。それだけで全然違うんですよね。自分に対して公平な証人になる、とでも言うのかな。そういう感覚でした。

自分の「嫌だ」に気づくことが、入り口だった

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

自分を観察し始めると、最初によく見えてくるのは「嫌なこと」だったりします。「あ、これ嫌だったんだな」という気づき。これって、実はすごく大事なことだと思っています。

私がずっと苦手だったのは、「嫌だ」と感じることを、感じていいと思えていなかったことでした。「こんなことで嫌だと思うのは心が狭い」「我慢しなきゃ」「もっと大らかにならないと」って、自分の「嫌だ」を打ち消す癖がついていたんですよね。

例えば、友達との約束をドタキャンされることが、昔から苦手でした。でも「忙しいんだからしょうがない」「いい大人が約束のドタキャンで傷つくなんてダサい」って思って、その気持ちを無視していたんです。傷ついてないふりをしていました。

でも観察をするようになってから、「あ、ドタキャンされると本当に悲しいんだな、私」って素直に気づけるようになりました。別に怒ったり相手に言ったりしなくてもいい。ただ「悲しかった」という事実を、自分で認める。それだけで、だいぶ違うんです。

「嫌だ」「悲しい」「疲れた」「怖い」という感情を「あってはいけないもの」として封じ込めていると、それは自分を否定することと同じです。その感情を持った自分を「ダメな自分」として隠してしまっているから。自分の「嫌だ」にちゃんと気づいて、「そうか、嫌だったんだね」と認めてあげること。これが、自分を好きになることの最初の一歩だったと、今は思っています。

「嫌だ」の気持ちを認めることって、自分を甘やかすこととは違います。ちゃんと自分に「そういう感情があった」と教えてあげることです。それだけで、自分のことを「ないがしろにしていない」という感覚が生まれてくるんですよね。小さなことだけど、これが積み重なると全然違ってくる。自分のことをちゃんと見ている、という感覚が育っていくんです。

「私はこれが好き」を、ひとつずつ積み上げていく

「嫌だ」がわかってくると、次第に「これが好き」もクリアに見えてくるから不思議です。

自分の好きなものを、改めて棚卸しした時期がありました。大げさなものじゃなくていい。「朝、静かなうちにコーヒーを飲む時間が好き」「雨の音を聞きながら本を読むのが好き」「歩いて10分以内に公園がある環境が好き」みたいな、ものすごく小さなことから始めたんです。

書き出してみると、「あ、私ってこういう人間なんだ」という輪郭が見えてくるんですよね。「派手なパーティーよりも、少人数でじっくり話すほうが好き」「映画を観た後、感想をひとりでぐるぐる反芻するのが好き」「街の古い建物を見るのが好き」。誰かに評価されるものでも、すごいものでもない。でも「私の好き」としてそこにある。それを積み上げていくだけで、「ああ、私はこういう人間か」という感じが出てくるんです。

自分の好みがわかると、選択が変わります。「好きじゃないのに合わせていた時間」「別に行きたくなかったのに断れなかった場所」が見えてくる。そういう場面で「私はどうしたいか」をちゃんと考えられるようになってくる。自分を好きになるって、こういう積み重ねのことかもしれない、と思い始めました。

「私の好き」を知ること自体が、自分のことをちゃんと見ている証拠でもあります。「この人間のことを、ちゃんと知っていてあげている」という感覚。それが自分への愛情の形だと思っているんです。誰かに「あなたはこういう人でしょ」と言われるより、自分で「私はこういう人なんだよね」って言えるほうが、ずっと心地いいはずですよ。

あと、好きなものを知っていると、「時間の使い方」も変わってきます。「これは私が好きなことじゃない」とわかっていれば、断ることができる。断れなくても「本当はこっちのほうが好きだったな」と自分で知っていられる。それだけで、消耗の仕方が違うんですよね。

自分に「正直でいること」の、地味で大切な話

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

自分に正直でいることって、思ったより難しいんです。これは本当にそうで、私も今でも油断するとすぐ「人に合わせた自分」になっていることがあります。

特に顕著だったのは、感想や意見を言うときでした。誰かに「これどう思う?」と聞かれたとき、相手がどう思っているかを先に察知して、それに合わせた意見を言う、という癖がついていたんですよね。「この映画、どうだった?」「え、すごく良かったよね!」(本当はそんなに好みじゃなかった)……みたいな。

これって、一見「空気を読んでいる」ように見えるけど、実は「自分がない」ということでもあります。「自分の感想はどうでもいい」「相手に合わせておいたほうが安全」という大前提で動いているわけです。そういうことを積み重ねると、だんだん「私って何が好きで何が嫌いなんだっけ」がわからなくなってくるんですよね。

自分に正直でいるって、べつに「いつも全員に本音を言う」ということじゃないと思っています。シチュエーションによっては黙ったままのほうがいいこともある。でも少なくとも「自分の中では正直でいる」こと。「私は本当はこう思っている」という自分の声を、なかったことにしない、ということ。それだけでも、だいぶ違います。

これができるようになると、人付き合いも変わってきます。「本当の自分」を出していない関係よりも、多少ぶつかっても正直でいられる関係のほうが、自分を好きでいられるんですよね。「この人の前では自分でいられる」という安心感を持てる人が、ひとりでもいると、だいぶ違います。

正直でいることは、勇気がいります。「本当のことを言ったら嫌われるかも」「合わせておいたほうが楽だから」という気持ち、すごくわかりますよ。でも、本当の自分を隠したまま仲良くしていても、「受け入れられている」という実感はなかなか育ちません。「私の本音を知らない相手に好かれているだけ」という感覚が、じわじわ自分を消耗させるんですよね。

「自分を好きになること」は「自分を肯定すること」だけじゃない

「自分を好きになる=自分を肯定する」という図式が、いつのまにか当たり前になっていますよね。自分のダメなところ、弱いところ、恥ずかしいところ。それを全部「それでいい!」と肯定していくことが「自分を好きになること」だ、という考え方があります。

でもね、これ、やってみると結構しんどかったりしませんか?「これでいいんだ」「これも私の個性だ」って無理やり思おうとすると、なんか嘘くさい。少なくとも私にはそうでした。欠点を「なかったことにする」か「強引に肯定する」か、どちらかしかないのかな、とずっとモヤモヤしていたんです。

私が思う「自分を好きになること」は、むしろ「全部ひっくるめて、この人間を面白いと思えること」に近い気がしています。欠点も含めて強引に肯定する、というより、「ああ、この人間、ここがダメなんだよなあ」とわかりながら「でもまあ、面白い人間だな」と思える感覚。親が子供を見るような感じ、と言ったほうが近いかもしれません。完璧だから好きなんじゃなくて、この存在自体を好ましく思っている、みたいな。

全部を肯定しなくていいと思っています。欠点は欠点として、ちゃんと見ていい。でも、そういう複雑さも全部含めて「この人間、まあいいじゃないか」と思えること。これが、自分を好きでいられる状態の正体じゃないかな、と今は思っています。

「自分を肯定する努力」は、うまくいくと自分を強くしてくれます。でもうまくいかないと「肯定できない自分」という新たな失敗体験になってしまう。だから私は「肯定しようとすること」より「この人間を知って、面白がること」のほうが、長く続けられると思っているんです。完璧な評価をしなくていい。ただ「面白い存在だな」と思えれば、それで十分じゃないでしょうか。

比較という名の泥沼から、抜け出せた日

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

自分を好きになることを邪魔するもの、ナンバーワンは「比較」だと思っています。少なくとも私にとってはそうでした。

SNSを見ると、きれいな人、うまくいっている人、充実した生活を送っている人が目に入りますよね。そのたびに「私はなんでこうじゃないんだろう」とじわじわ削られていく感覚。私もそれがひどかった時期があって、SNSを開くたびに気分が落ちる、という状態になっていたことがあります。

「比較しなければいい」って言うのは簡単ですが、実際にやめるのって難しいんですよね。なので私がやったのは「比較の対象を変えること」でした。他人と比べるのをやめて、「過去の私」と比べるようにしたんです。「一年前の私は、こういうことができなかった」「三年前の私には、こんな発想がなかった」という視点。

これ、単純なようで結構効きます。他人との比較は終わりがないけれど、過去の自分との比較には「成長した」という事実が積み上がっていく。それが「私、ちゃんと生きてるな」という感覚につながっていったんですよ。自分を好きになることと、成長を感じることって、わりと近いところにあると思います。

あと、比較についてもうひとつ言っておきたいのは、「他人の人生と私の人生は、比べる土台が違う」ということです。同じ年齢でも、育ってきた環境も、持っているものも、大事にしていることも全部違う。それを同じ軸で比べること自体、そもそもおかしい話なんですよね。あの人があの年でそれを達成しているとしても、私はまた違う道を歩いているだけで、どちらが優劣というわけじゃない。そう思えるようになってきてから、だいぶ楽になりました。

SNSを見るたびに削られているなと感じたら、思い切って少し距離を置いてみることをおすすめします。一週間くらい見ない時期を作ってみると、「あ、私の気分って、外からの情報にこんなに引っ張られていたんだ」ということがよくわかりますよ。自分の気分の「ベースライン」を知るためにも、比較の機会を減らすことって、大事だと思っています。

行動から変えると、気持ちが追いついてくる

気持ちが先か、行動が先か、というのはよく言われる話ですが、「自分を好きになる」に関しては、行動が先のほうが私には効きました。

「自分を大切にしよう」と思うより先に、「自分を大切にしている人がやるであろう行動」をまず取ってみる、ということです。例えば、睡眠時間をちゃんと確保すること。「あと少しだけ」と言ってSNSを見続けるのをやめて、決めた時間に寝る。栄養のあるご飯を食べる。嫌いじゃないけど疲れるだけの付き合いを少し断る。自分の体や心に「それなりの扱い」をする、ということです。

最初はなんとなくやっているだけなんですが、続けていると「あ、私、自分のことをちゃんと扱ってる」という感覚が生まれてくるんですよね。自分に「まあまあいい扱い」をしていると、なんとなく「自分はそれなりの扱いを受けていい存在なんだな」という気分になってくる。これは理屈じゃなくて、体感として変わってくる感じです。

逆に言うと、自分を粗末に扱い続けると、それが「私の相場」になっていくんですよね。睡眠を削って、ご飯を適当にして、嫌なことを我慢し続けていると「私って、そういう扱いが普通なのかな」という感覚になっていく。これ、怖いことだけど本当にそうだと思っています。自分への扱い方は、自分への評価と連動している。だから行動から変えていくことに意味があります。

「自分を好きになる気持ち」を先に作ってから行動する、というのは難しいですよね。気持ちが先にあれば苦労しないわけだから。行動が先で、気持ちが追いついてくる。そういう順番で考えると、「まず何をするか」が具体的に見えてきます。「今日から自分を愛します」じゃなくて、「今日は早く寝ます」から始めたほうが、ずっと現実的なんですよ。

私が自分への扱い方を変えて、一番効果を感じたのは「ご飯をちゃんと作ること」でした。誰かのためじゃなく、自分のためだけにちゃんとご飯を作る。それだけで「私は、自分のためにこういうことをしてあげられる人間なんだ」という感覚が積み上がっていくんですよ。小さいことだけど、侮れません。

「自分がいてよかった」と思える場所を作ること

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

自分を好きになるにあたって、「居場所」ってすごく大事だと思っています。自分が歓迎されていると感じられる場所、自分が役に立てると思える場所、自分の存在が意味を持つ場所。そういう場所があると、「私、ここにいていいんだな」という感覚が育っていくんですよ。

仕事でも趣味でもコミュニティでも何でもいいんですが、「ここでは私は存在している」と思える場所をひとつでも持てると、全然違います。私の場合は、このブログでした。文章を書くことで「私が考えたこと・感じたこと」が形になる。それを誰かが読んでくれる。反応をもらえる。それが「私がここにいる」という感覚に直結していたんです。

別に影響力のある場所じゃなくてもいいんですよ。たとえば、行きつけのカフェで顔を覚えてもらっているとか。常連になっているお店のマスターと少し話せるとか。スポーツのチームで「あなたがいてくれてよかった」と言われるとか。そういう小さな「自分の居場所」が積み重なっていくことで、「私はここにいていいんだ」という確信が育っていくと思っています。

逆に、「私がいなくてもどうせ変わらない」という感覚が続くと、自分への評価はじわじわと下がっていきます。そういう環境や関係性に長くいすぎると、「私って別に必要ない」という大前提が固まってしまいがち。そうなる前に、自分が「いてよかった」と感じられる場所をちゃんと作っておくことが大事だなと、今は思っています。

「居場所を作る」というのは、大げさなことじゃなくていいんです。週に一回通うお稽古事でもいい。ひとりの友達と定期的に会うだけでもいい。「ここでは私は私でいられる」という場所を、ひとつ持つだけで、だいぶ違います。自分の居場所を持っている人と、そうでない人では、自分への評価に大きな差が生まれてくると思っています。

あと「居場所」と似た話で、「自分が選んだもの」を持つことも大事です。誰かに勧められたから通っているんじゃなくて、自分で「これが好きだから」と決めた場所や習慣。それがあると「私は自分のことを選んであげている」という感覚になれるんですよね。自分の人生の主体は自分、ということを体感できる機会になります。

自分を好きになることは、ゴールじゃない

「自分を好きになりました!完成しました!」みたいな瞬間は、たぶんないんですよね。少なくとも私には来なかった。いつの間にか「まあ、自分のことをそこそこ好きかも」という地点に来ていた、という感じです。

それは毎日のひとつずつの積み重ねだったと思っています。「今日、自分の『嫌だ』にちゃんと気づけた」「今日は無理せず早く寝た」「今日、正直に感想を言えた」「今日、好きな時間をちゃんと作れた」。そういう小さなことの積み重ねが、「私って、まあまあちゃんとやってるな」という感覚を作っていくんです。

自分を好きになるって「常に自分を肯定していること」でもないと今は思っています。しんどい日もある。自分がうまくいかない日もある。「ああ、またやってしまった」と思う日も、当然ある。でもそういう日があっても、「まあ、そういう日もある。この人間、そういうこともあるよね」って、少し距離を持って受け止められるようになってくること。これが、自分を好きでいられることの正体かもしれない、と思っています。

完璧な自分を目指すんじゃなくて、「複雑でいびつな自分」をちゃんと面白がれるようになること。それだけで、十分です。

「自分を好きになろう」と頑張りすぎていた頃より、「まあ、この人間なりにやってるよね」と思えるようになった今のほうが、ずっと楽です。ゴールを目指すより、今日の自分と仲良くいられることのほうが、よっぽど大事だと思っています。毎日ひとつずつ、それだけでいいんです。

最後に。私が思う「自分を好きになること」

自分を好きになるって、こういうことじゃないかと思う

長々と書いてきましたが、最終的に私が思う「自分を好きになること」を、まとめてみようと思います。

自分を好きになることは、「欠点も全部ポジティブに見ること」じゃない。「常に自信満々でいること」でもない。「他の誰よりも自分を優先すること」でもないと思っています。

私が思うのは、「この人間のことを、ちゃんと知っていること」です。何が好きで、何が嫌いで、何が得意で、何が苦手で、どんなときに疲れて、どんなときに元気になるか。それをちゃんと知っていること。そして「それでも、まあいいじゃないか」と思えること。

自分のことを他人みたいに観察できるようになると、欠点も「この人間の特徴のひとつ」として見えてくるんですよね。「またこのパターンか」と思いながら、「でもまあ、この子はそういう子だよね」と受け取れるようになる。それが、自分を好きでいられる状態の正体だと思っています。

「自分を好きにならなきゃ」と焦らなくていいんです。ただ「自分のことを、もう少し知ってみよう」から始めればいい。そこから、いつか「あ、まあいいじゃん」が来ます。鏡の前の、あの朝みたいに。

それが自分を好きになる、ということだと、私は思います。