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救いがない胸糞映画か?!『ミスト』感想-ネタバレ考察-

映画『ミスト』のレビューを読むと、<胸糞なラスト>とか<救いがない>などネガティブなワードが目立ちますよね。

後味が悪い映画の代表的なものには『セブン』や『ダンサーインザダーク』がありますが、それに並ぶレベルとのこと。

えー!?それはかなりよ?そんなに言うならどれほど胸糞なのか観てみたいなと思いまして、Amazonプライムビデオで観てみました!

結論から言うと、たしかにラストは衝撃でしたが胸糞とは感じませんでした。

ただ、人生の「選択」と「行動」、日々の自分の「感情」や「思考」を見つめ直し、経験をどう活かしているか、「自分」を持っているか、それら日常の生き方がまんま反映している映画だと感じました。

以下、映画『ミスト』の感想と考察です。

ですます調だとちょっとタルいので、すみませんが口調を変えます。

 

映画の舞台がほぼスーパーマーケットの店内であることが、いわゆる<人間の本質>や
<人生の縮図>を表しているように思った。

人は、得体の知れない恐怖や不安感が強くなればなるほど、「理由」や「原因」を知りたがるものだと思う。とにかく希望と安心感が欲しいから。
だから、どれだけ文明や科学が発達しようが占いや宗教に救いを求める人がいなくならないのではないか。

ただつらい現実から逃げたいだけの人なら宗教に、つらい現実の原因と解決策、自分がいつ幸せになれるのかを明示してほしい人は占いに走る。

「大丈夫。あなたが不幸なのは今だけ。理由は生霊に憑かれやすい体質のせい。○○と毎日唱えれば生霊は消える。そうすればあなたは3か月後にはその意中の彼から告白され、2年後にはその彼と結婚できるよ。」

なぜ自分は不幸なのか、この先もずっと不幸なのか、どうすれば幸せになれるのか、好きな彼の気持ちはどうなのか…。漠然とした未来への不安とつらい過去と現在の原因をサッと答えてくれた占い師に、心身が弱っている人間はつい心酔してしまう。

作中のカーモディは旧約聖書を肌身離さず持っている熱心な宗教信者だが、予言じみたことを言ってたまたま的中させたり、ハッキリと「不幸の原因」を明示している部分は霊感占い師の要素もあった。

原因→愚かな人間どもが月面を歩いたり幹細胞の研究をしたりして神の怒りを買ったから

解決策→誰かを生贄にすれば神の怒りは収まる

未来予知→「今夜、自分たちのいるスーパーマーケットはモンスターに襲われる。」

神がかった現象→巨大虫が身体に付いたのに刺されなかった

夜襲われたのは別に未来予知でもなんでもなく、ガラス1枚隔てた向こう側に巨大モンスターがうようよいる状況と分かっているなら、「なんか夜襲撃されそうだな。。」くらい霊感のない私でも分かる”嫌な予感”レベルのもの。

でも夜になって本当にモンスターに襲撃されたものだから、「ヤだ…スゴイ当たってる…。」とカーモディに心酔する人たちがチョロチョロと出てきてしまった。
さらに、店員のサリーが巨大虫に毒針で首を刺されて死んでしまったのに、カーモディのお腹にくっついた巨大虫は彼女を刺さなかったことが、相当神がかった現象に思えたのだろう。

しかし冷静になって観てみればわかるが、この巨大虫たちはナイフのような針を持っていたからいくらでもガラスを割って店内に入ることもできたのに、明りに誘われてガラスにくっついていただけ。人間を捕食したり襲うために存在していなかったのが分かる。

でも巨大虫を捕食するモンスターが登場して巨大虫を襲った勢いでガラスが割れて店内に入ったから、逃げるように巨大虫も店内に入り、たまたまそこにいたサリーに止まり、彼女が暴れたから刺しただけ。

たぶん普通の虫と習性が同じでむやみに人を襲ったりはしないから、じっと息を殺していたカーモディを刺さなかったのだろう。

でもあの場にいた人たちは前代未聞のパニックの中で冷静に状況を掴めなかったから、「ヤッバイ!カーモディのことは襲わないんだ!やっぱり神の力を持っている人なんだ!」と思ってしまった。
おそらく普段から占い師のコールドリーディングに簡単に引っ掛かるタイプの人たちだ。

いつ死ぬか分からない極限の恐怖でストレスMAXになっていれば、信じてしまうのもまぁ無理もない。

人は日ごろ、それぞれの価値観や倫理感で物事を解釈して行動すると思うが、目の前で人が死に、エグイ死体を目にしても逃げ場がなく、実際にモンスターに襲われ、極限のストレス状態になっている場合、正解が分からない前代未聞の状況では「今までどんな思考と行動力で生きてきたか」が一番露呈するのではないか。

今まで大したストレスもなく、何かを乗り越えた経験と言えば受験か部活くらいで、長いものに巻かれ自分の頭であまり考えず、レールの上を進み、波に抗うことなくカヌーに乗って流れに身を任せているような人生を送ってきた人は、神の代弁者()カーモディに救いを求めるだろう。

分かりやすいから。

一方、教養があり自立していて、人に流されず自分の頭で考えて行動してきたタイプの人たちは、主人公側についた傾向にあると思った。

つまり、問題を解決するのに神の力や占いや引き寄せの法則に頼ってこなかったリアリストたち。

願うのではなく、自分と向き合って行動してきた人たち。

今回はその行動力がたまたまアダになってしまったが、皆デヴィッドに流されている感はなく、自分の意志で行動していたように思う。

だから、最後自殺を決めた時にデヴィッドに恨み節を言ったり後悔を口にする人は一人もいなかったし、「やるだけのことはやった。」と後悔はないように思った。

もし、スーパーマーケットに残ったカーモディ信者たちがモンスターに襲撃されたとしたら、彼らは「やっぱりあんなキ○ガイ女の言うことなんか聞くんじゃなかった!」と人のせいにしながら死んでいっただろう。

どちらが悪いというわけではない。

ただ、どちらの人生が充実していますか?ということ。

映画では、胸糞ラストだったかもしれない。デヴィッドには後悔と絶望しかないだろう。だからレビューには「デヴィッドこそがカルト教祖だった。」とか「デヴィッドの行動が全部裏目に出て、たくさんの死者を出した。」とか、辛辣な意見が並ぶ。

でも本当にデヴィッドは間違っていたのだろうか。

結果だけ見ればそうだったかもしれない。
でも人は、前代未聞の大惨事に見舞われたら過去から解決策を見出すしかない。

デヴィッドたちの過去は、こうである。

  1. なんかもうたくさんモンスターがいて目の前でたくさんの人が惨殺された
  2. カーモディに息子ビリーが生贄にされそうになった
  3. カーモディ信者たちは「意思のない服従」状態。倫理観が崩壊し平気で殺人をする
  4. 軍が変な実験をしてしくじったせいでこうなったと、噂レベルだが軍人の口から聞いた

この状況で、「軍が自分たちを助けてくれるだろう!皆で助け合い、ここから動かない方が賢明だ!」という判断ができただろうか。スーパーマーケットから脱出する以外の選択肢があっただろうか。

デヴィッドが絶望的なラストになった要因は、たまたまあのタイミングで車がガス欠になってしまったから。たまたまカーモディに食料を奪われて拳銃以外何も持っていなかったから。たまたま車から降りた時にモンスターが襲ってくれなかったから。

序盤で霧の中、スーパーの外に出て幼い子の待つ家に帰ったベリーショートの主婦が、ラストシーンでは子供たちと一緒に軍のトラックで救助されていて、憐れんだ目でデヴィッドを見下ろしていたが、彼女が助かったのも偶然。

彼女の判断と行動力が功を奏したのは間違いないが、全員同じ行動を取っていれば助かったのに!と言ってしまうのはあまりに雑。単独行動がよかっただけかもしれない。

だけど、彼女は彼女の人生にとってベストな選択をした。それが後になって、彼女にとってグッドチョイスだったと判明したというだけ。

おそらくスーパーに残ったカーモディ信者たちも軍に助けられただろう。たまたま。

後から結果だけ見れば、「あの時あぁしていれば良かったのに!」と何とでも言える。

でも人生は、未来がどうなるかなんて誰にも分からない。

あのスーパーマーケットは「どう生きるか」の縮図であり、デヴィッドや隣人で弁護士のノートンたちは「自分で道を切り開くタイプ」、カーモディ一と無口な仲間たちは「服従して適応するタイプ」だった。

あの映画に「本当の悪人」は1人も存在していない。皆、本気で自分が正しいと思って行動している。

皮膚移植が必要なレベルの重度のヤケドを、デヴィッドは薬局の抗生物質でなんとかしようとして(本人は死なせてくれと懇願しているにもかかわらず)、デヴィッドと一緒に店外の薬局に向かって途中で死んだ人たちも、

デヴィッドの制止を無視してシャッターを開けてイカモンスターに襲われ命を失った人も、

恐らくノートンの「弁護士」という肩書とリーダーシップに権威性バイアスがかかり、モンスターの存在を信じず早々に店外に出て死んでいった人たちも、

自分の頭で考えることが出来ないから、カルトおばさんに服従した人たちも、

軍人の腹を刺して生贄に差し出した人たちも、

全て彼らの「善」であり、それが正しいと皆がそれぞれ自分の意志で選択したものだと私は思う。

人の意見に流されやすかったり影響を受けやすいのは、今までそういう生き方をしていたからであって、リーダーシップを取ったデヴィッドもカーモディも責任が問われることではない。

信仰は自由だ。価値観も倫理観も人それぞれ
大事なのは、どう行動するかだ。

ただそれだけ。どちらが正しいでも間違っているでもない。他人の選んだ人生だから、他人がとやかくジャッジするものでもない。

自分はどう選択し、どう生きるか。それだけだと思う。

だから、この映画『ミスト』の感想によく言われる「集団心理の怖さ」は、私はあまり感じなかった。

私個人は、集団心理ではなく、個々の思考や行動力を強く感じた映画だった。

 

しかし、人として善良な選択をした者が必ずしも報われるわけではないという世の理不尽さも、この映画は十分すぎるほど表現している。

それが日々を懸命に生きる観客の心に突き刺さったのだろう。誰もが多かれ少なかれ、理不尽な思いをした経験があるから。

その時その時の自分の選択で良くも悪くも人生が決まってしまうし、必ずしも善良な人間が幸せになれるわけではないことを観客たちは知っているから。
「悔しいが世の中ってそんなもんだ」と認めているから。

だからこそ、デヴィッドへ向けられた「あまりにむごたらしく耐え難い理不尽」に対して嫌悪感や恐怖心を抱いたのではないか。

たとえ相手が赤の他人でも自分の命を顧みず救おうとしてきた主人公が、ここまで理不尽な結果になることに、<救いがない>と評価したのだろう。

 

余談だが、集団心理で思い出した。

2011年の東日本大震災で都心勤務の人たちが大行列を作って徒歩で帰宅しようとした、あの「帰宅難民」を。

あの大行列の中に私もいた。

結果だけ見れば、会社に残って一晩過ごした方が明らかに懸命だった。

翌朝には都心の電車はほぼすべて運転再開していたし、ライフラインが止まったわけじゃないから会社は暖房がきいていたからだ。食料もあった。

なにも凍てつく寒さの中、ヒールで数キロも歩きさまよう必要なんてなかった。
都心に勤務するサラリーマンは郊外のベッドタウンに住む人が多く、冷静に考えればとても歩いて帰れる距離ではない。

私の勤務先は渋谷で、当時の家は横浜市にあった。社内で、同じ横浜市民同士4人で「タクシー拾って帰ろう」と夕方に会社を出た。正直、かなり楽観的だったと思う。
しかしあの状況でタクシーなど拾えるわけもなく、さらに同じ横浜といえども広く皆バラバラの地域に住んでいたため、途中で別れることとなり、私は中目黒から1人になった。

あの大行列の中で、実際に徒歩で家までたどり着けた人は何人いたのだろう…。
いくら家族が心配だからとはいえ、無謀な選択だったと思う。

私はたまたま0時頃にいつも使っている私鉄の運転が再開したから、途中駅から乗ることができ、深夜に無事帰宅することができた。
でももし翌日まで運転が再開していなかったら、来るわけもないタクシーを寒空の下、夜通し1人延々と待つしか方法がなかった。下手に長距離を歩いたから、会社に歩いて戻れる距離でもなかった。
会社に残ればよかったものを、ずいぶんとリスキーな選択をしたものだと思う。

だからといって、赤の他人から「バカだねぇ外に出たなんて。」と非難される言われはない。後からならいくらでも言えるからだ。

デヴィッドの選択を非難する人たちは、おそらくプロ野球を観ながら「おいーここで打てよぉー!」とバッターに文句を言う感覚なんだと思うが、彼らは災害が起きた時にどんな正しい選択ができるのだろう。

ふと、そう思った。